カンテラを持って散歩に行きましょう/熱ロク

外から虫が鳴く声が聞こえる。
生まれてからずっと過ごしていた家を離れて新たな地へと来たのに、夜の帳が下りた窓の外から聞こえてくる音は昔とあまり変わらない。
こんな夜には、決まって頭の奥から耳鳴りがする。引っ越してくる以前からずっと鳴り止まないそれは、引いては寄せる波の音のようでもあった。
海の音は苦手だ。特に、人がほとんどいない海岸線から聞こえてくるさざ波の音などは。 
ーーいつから耳鳴りが聞こえていたかなんて、もうほとんど覚えていなかった。
けれど、WWWとの最初の戦いの後。俺に死に別れた双子の片割れがいた事を知らされた時ならこの耳鳴りが聞こえていたような、確信めいた自信があった。
自らの片割れである彼に感じるのは恐怖ではない。それに似たなにかで、けれど嫌悪には程遠い。強いて言えば、愛情に近いもの。
この感情を言葉に表現する事が出来ない。感情の名前を知らないから分からない。俺はまだ子供だから。
そんな言い訳をして、先延ばしにするのが自分の悪い癖だったような気がする。それを誰かに指摘されたことも、覚えていた。
あれはいつの事だったのだろう。母に叱られた時だったか。それとも父か、はたまた近所に住んでいる友人達の小言か。
あるいは、小学校に上がってすぐに父から貰い受けた、自分のネットナビの言葉だろうか。

眠れないの、と枕元に置いてあるPETから声が聞こえた。顔をPETの方へ向けると、画面にはほのかな明かりが灯っていた。先程から布団の中で何度も寝返りを打っていたのを、彼は気づいていたようだ。
少しだけな。
口から出た声は自分で思っていたよりも掠れていて、電気を消した真っ暗な部屋の中でどこか寂しげに響いた。
水でも飲めば気が楽になるだろうか、そんなことを考えていれば枕元から全く同じ内容を提案された。
画面越しに彼を見つめていれば、ふと思い立って起き上がる。PETを手に取って、部屋の隅に置かれた機械に彼を転送する。夜だから掛け声は言わなかったから、彼も何が起こったのかすぐ判断できなかったのだろう。
急な事に彼は驚愕の声をあげる、電脳世界から現実世界へとコピーライドを介して出てきた片割れを見つめる。
ついてきて、と声を掛けながら手を握り階下へと足を運ぶ。あくまでもその足取りはゆっくりと。
もう日付は変わってしまったから、両親は布団の中で幸せな夢を見ているはずだ。その邪魔をしてはいけない。
キッチンに強いこだわりを持つ母が選んだ食器棚から普段使っているマグカップを手に取り、水道から水を汲んで一口含む。

このまま外へ散歩に行きたい気分だった。彼と一緒ならどこまでも先へ行けそうな気がする。
未だ見慣れぬ街の夜の姿は、きっと昼の姿とは違う魅力を教えてくれるのだろう。
カンテラをひとつ手に取って、傍らには己の片割れを伴って夜に溶けてしまえたら。

ごくりと、夢物語も水も共に飲み込んでしまう。横で所在無さげにしながら、水を飲む自分を見つめる彼がなんとなく面白くて、マグカップの中身を全て飲み干してから、飲むか、と声をかけた。
「ボクはネットナビなんだから、現実の飲み物は飲めないよ」
冗談だよと潜めた声で笑い飛ばした。俺の行動の意図が掴めなかったらしく、難しそうな顔をしている。冗談の通じない奴。

そんなところもたまらなく好きなのだ。
嗚呼、耳鳴りが少しだけ止んだ気がする。

マグカップを流しに置いて自分の部屋へ向かう。相も変わらず、彼の手を掴んだまま。
そのまま共に布団の中に入ろうとしたら、PETに戻らなきゃなんて連れない言葉が帰ってきた。俺の手元にあるコピーロイドは特別製だから、量産型のそれに比べれば一晩コピーロイドの中に入っておくことぐらい大丈夫な筈なのに。
一緒に寝よう。明日に響くだろ。無理を言って、布団の中に押し込む。
間髪入れずに俺も布団の中に潜り込み手のひらを重ねた。人間の柔らかな皮膚とは違う、ゴムのような感触。仕方ないと言いたげに笑う口元、握り返される感触。それだけで、救われる気がした。
今日だけだからね、と呆れた声が聞こえる。中学生になっても変わらないと、内心呆れているんだろう。
それで構わない。いつまでも俺のことを見くびっているといい。
耳鳴りが止むその時に、俺はお前を手に入れてやる。
重ねた手のひらでは飽き足らず引き寄せて抱きしめて目を伏せた。布団に包まれても機械の身体はすぐに暖かくならないのが寂しかった。

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