恋の病/ロママー

あ、まただ。
自覚した頃には遅すぎて、マーリンは自分の表情を制御できないのを感じた。ふわりと浮かべていた賢人めいた微笑みは消え失せ、口角はきゅ、と結ばれた、綺麗すぎるほどに無表情になったマーリンがそこにはいた。
簡易的なレイシフトから帰還したマスターや他のサーヴァント達はまだマーリンの表情の変化に気づいていない。各々にレイシフト先でのことを報告しあっており、あと数秒もすればロマニの締めの声が入ってレイシフト後のブリーフィングが終わる。そうすれば皆が管制室から出ていくのを見送りながら自分も一番後ろに、それとなく引っ付いていけば怪しまれないだろう。
マーリンはそんなことを考えながらも、ずっと表情を貼り付けることができないまま無感情の表情を貼り続けた。これは、先日からたまに起きる発作のようなものだった。
「…これで大体の報告は終わったかな?じゃあ今回のレイシフトはここまで!
みんなお疲れ様。次のレイシフトまでゆっくり休んでくれ」
ロマニの鶴の声が響き、管制室の緊迫した空気が一気にふわっと軽いものになる。この安らぎのひとときにだけ味わえる柔らかく甘い感情を食べるだけの余裕が無いのが口惜しいが、マーリンは表情を隠すべくそっぽを向き、まるで何かを見つめているかのように自分を演じた。
空中の塵をぼんやりと見ているかのように、マーリンは景色に溶け込んだ。無機質な管制室にマーリンのように浮世離れした存在はひどく不釣り合いで、本来ならそこにいるだけで存在感を放つというのに、マーリンは幻術で姿を消す時の要領で、人の意識からマーリンという存在を消した。
サーヴァント達が部屋へとぞろぞろと戻っていく。誰もマーリンのことは気づかない。
あと少しすれば、マスターとマシュが部屋を出れば数人のスタッフだけがここに残る。今のタイミングがちょうど良いだろう。

「マーリン」

ロマニに後ろから声をかけられる。そういえば、ロマニに対して注意を払うのを失念していたことにマーリンは気がつく。マスターや他のサーヴァントにこんな失態を見せるのが嫌だったのと、無用な心配を彼らにかけたくなかったからだ。
また気づくのに遅れてしまった。失態続きで嫌になってしまう。マーリンが自己嫌悪に浸る間もなく、ロマニはマーリンの横に来てそっと顔を覗き込んだ。

「さっきからどうしたんだお前、表情がまるで出せてないじゃないか。感情のストックがなくなったのか?」
「なんでもないよ。ストックがなくなったわけでもない。…ここに来てからたまになるんだ。少しすれば治るから、放っておいてくれ」
「…治るまでボクの部屋にいていい。ボクもあと少しデータをまとめたら行くから。鍵は…持ってるよな」
「持ってるよ。…全く、そんなに大事じゃないから構わないんだけどな」
「いいから。心配くらいさせろ」

心配。彼から発せられた言葉に、マーリンは思わず笑みがこぼれてしまう。

「君が私を心配?ははは、面白い冗談だね。
…まあ、君がそこまで言うのなら君の部屋で待機していようかな」
「あっ、おいこら」

けらけらと笑い終えた後、マーリンはなんでもなかったかのようにロマニの横をすり抜けて管制室を出て行く。
不意に発現した自分の感情に、不快そうに眉間をしかめながら。

静かな管制室に鳴り響いていたタイピング音が止まる。
やっとデータ処理の目処がたった。残りは後続のスタッフに任せて、自分も上がってしまおう、とロマニは長い時間座っていた椅子から立ち上がる。凝り固まった肩や腕がこきこきと鳴った。
「…なんて顔してたんだ、あいつ」
先ほど、管制室から出ていく直前のマーリンを思い出しながら、ロマニは呟いた。
マーリンが管制室を出て30分は経っただろうか。今回のレイシフトは以前の特異点での調査の続きのようなもので、重要度はそこまで高くはない。後処理も早々に終わらせてしまったので、スタッフには早めの休憩時間を与えた。一人きりの管制室でなら、多少独り言を呟こうが咎める人間はいなかった。

最近、マーリンの感情が、情緒が不安定になっていることは何と無く察していた。
今まではできていて当然だった、他者の感情の色を乗せて表情を作ることを、マーリンはできなくなってきていたことも。
原因として思い当たるのは、マーリンに感情が生まれたこと。もう一つは、自分とマーリンが、恋仲になったことであった。
基本的な喜怒哀楽を示すことはあれど、マーリンが自分から感情を発することなど今までは基本的にはあり得なかった。マーリンは自分がそういうものなのだと信じて疑っていなかったし、事実1500年以上、マーリンはそうやって過ごして来たのだ。
そんなマーリンが、ロマニに恋をして初めて感情らしいものを手にした。
正確には、ロマニに愛され、愛することを知ったからだろうとロマニは考える。
自分の与えた感情がマーリン自身の感情にも反映されているのはこの上なく幸せなことなのだろう。自分が気づかせて、自分の知らない、マーリンの心の中で育てられた恋心が自分に向けられて、それを受け止めることができるのだから。
ただ、その事をマーリン自身が気づいていないか、もしくは気づいていても知らないふりをしていることが難点だった。先ほどの感情の抑制も、おそらく自意識がまだ不安定故のものなのだろう。
しかしその間隔も短くなって来ており、ゆっくりマーリンの心が育つまで見守るつもりだったロマニも、手を出さざるを得なくなってしまう。治療という目的もあるが、ここには私情がほとんど混ざっているのだ。
これ以上、マーリンが自分の感情に対して悩むのを見ていられなかった。取り返しのつかないことが起きそうで、ロマニは人知れずため息をついた。

「マーリン、いるか?」
「いるよ〜」
部屋の中に入って様子を見てれば、勝手知ったるなんとやら。マーリンはロマニの部屋に置いてある、自らが用意したティーセットを勝手に持ち出し、一人きりのお茶会をしていた。
ふんわりと香るハーブティーの匂いはカモミールだろうか。マーリンの魔力によって編み出された花がティーセットの近くに添えられており、自分の部屋のはずなのにロマニはなんだかここが本当に自分の部屋なのか、と疑問に思ってしまった。
今も無表情に口を開くマーリンだけが、この部屋でひどく異質だった。
「ちょっと気分が悪かったからね、好きにさせてもらった。ハーブティーはまだあるから、君も飲むといい」
「ああ、じゃあいただくとしようかな…これはまた、すごいな」
ハーブティーの入った透明なポットの中には小さな花が浮かび、ロマニが腰掛けた椅子のあちらこちらにもポツポツと花が咲いていた。
カップにハーブティーが注がれ、どうぞ、とマーリンに勧められるままにハーブティーに口をつける。その間にもロマニとマーリンの周囲を様々な花々が埋め尽くし、ロマニはげえ、と思わず声をあげる。
テーブルの上は白いカーネーションに、赤や黄色のバラで埋め尽くされている。
ロマニの椅子の足元は絨毯のようにクローバーが敷き詰められ、桃色の胡蝶蘭、サギソウ、色とりどりのベゴニアが咲き乱れている。
マーリンの周囲には、ロマニの椅子から伸びてきたクローバーを押し分けるように色の違う紫陽花が囲うように咲いており、その近くに真っ赤なハイビスカスから白いゼラニウム、果ては桃の花まで、季節や国を問わず、ありとあらゆる種類の花が二人の周囲を覆い尽くそうとしていた。
このままでは、部屋一面が花畑にでもなってしまいそうだった。この部屋には私物を含めてパソコンやタブレットなどといった精密機械がたくさんあるので、それは少し困る。
「お前ボクの部屋を花屋にでもする気か!?ちょっとは抑えろよ」
「…抑えられないんだよ、さっきから。気休めにハーブティーを淹れてみたりもしたのに、逆に増えてる気がする。確かに花が勝手に咲くのは止められないけど、ここまで花が増え続けるのは初めてだ」
マーリンはハーブティーを一口含み、コクリと飲み下す。その顔色はどこか青白く、魔力の枯渇が伺えた。

「おい、マーリン、お前魔力が」
「…うん。あまりこの状況は芳しくない。このままではこちらの私の魔力が枯渇して動けなくなってしまう。というか、今も正直結構辛い。どうしようかなあロマニ」
ロマニと会話していることで気が緩んだのか、椅子の背もたれに体を預け、普段の彼からは想像もできない、相当くたびれた部類の座り方をしていた。
無表情故に表情こそ固くないが、目線は気だるげで見るからに体調が悪そうだった。
「どうしようかなあ、じゃないだろ!…まさかお前、ボクの部屋に来てからずっとこうなのか」
「そうだとも。困ったなあ、こんなことは初めてだから私にも解決策が見当たらない。いっそ本体とのパスを一旦切った方がいいんだろうか?」
「今のお前の不安定さを見るとその選択は最後まで取って置いた方がいいと思う。…じゃあお前、管制室からここに来るまではどうだったんだ?廊下にも確かに魔力の気配はあったけど、ここまでは…」
「うん?相変わらず顔の筋肉が働いていないんじゃないかってくらい笑顔が浮かばなかったくらいで、ここまでひどくはなかったよ。
そうだなあ、花が止まらなくなったのは、この部屋に来て…君を待ち始めて、すぐ、くらい…?」
マーリンの表情が陰る。かしゃん、とカップが地面に落ちて割れた。

「マーリン」
「…君の、部屋に来てから?」
「マーリン、落ち着いて。ゆっくり呼吸をするんだ」
「何故だ?わからない、ロマニがいなかったから?ロマニが管制室にいたのは当たり前だ、君は最高司令官代理なのだから」
「マーリン」
「…うあ、なに、これ?」
ぼろぼろとアメジストから雫がこぼれ落ちる。これはまずい。ロマニは衝動のままにマーリンのことを抱きしめた。
「あっ、は、離してくれ!」
「こんな状態のお前を離せるわけないだろ!マーリン、いいから落ち着け」
「やだ、あぁ、なにこれ、ロマニ、なに、ぼく、知らない、こんなの僕、知らないっ…」
ぶわ、とマーリンの魔力が迸る。二人を覆うかのように咲き乱れていた花々は魔力に乗って散っていき、赤いチューリップだけが一輪、ぽとりと机の下に転がった。

マーリンの嗚咽だけが部屋に響く。ロマニがぽんぽんとマーリンの背中を叩くたびに、マーリンはロマニの名前を呼び続けた。

「寂しかったんだよな」

ささやくような声でロマニはぽつりと呟いた。

「ごめんな、お前があんまり可愛いから、いじわるしちゃって」
「う、ゃ、ろまに、」
「無理に喋らなくていい。そうだよなあ、お前、今までこんな感情知らなかったもんなぁ。怖かったよな」
「…僕は、怖かったのかな」
「そうじゃなきゃ、ここまでお前の魔力が暴走したりしないだろ。」
「…そうか、僕は感情が怖かったのか」

マーリンが無感情に、無感動に、けれどそれが彼の素を表すかのような声でぽつりと呟いた。
それがなんとも新鮮で、ロマニはくふ、と抑えられない笑い声をあげてしまう。

「な、なんだいロマニ、笑うことないだろ!?」
「いやごめん、そういう意味じゃなくて、ふは、可愛いなお前」
「は、はあ!?…い、いいから離したまえ!解決したんだろう!」
「え?根本的な解決には至ってないよ」

ロマニは腕の力を緩めて、マーリンの顔を正面から見つめる。そこには、無表情にこちらを見つめる冷たい表情ではなく、自然に顔を歪め、自然に頬を染めて困ったようにロマニのことを見つめるマーリンがいた。

「寂しかったんだろ?だったらもっとたくさん傍にいてあげる。
たくさん、溢れてしまうぐらいお前にボクの愛をあげる。お前だけに。」

マーリン。
噛みしめるように、愛おしげに、ロマには彼の名を囁いた。

「…ロマニは僕のこと、嫌いにならないのかい?」
「なんで?」
「え、いや、その、なんでっていうか」
「嫌いになるわけないだろ。こんなに僕への気持ちに翻弄されて、いっぱいいっぱいになるお前を見て。嫌いになれるわけないだろ。好きだよ」
「…ロマニ、僕、何か変だ」
顔を真っ赤にして、マーリンをケープの胸元を手繰り寄せて、眉をひそめた。
マーリンの常にない行動に、ロマニはそわそわする。
「さっきから、心臓が変にどきどきする。いつもと違う」
「お前、それ…、マーリンお前、今まで人間をあれだけ見てきて知らなかったのか?どれだけご婦人方の恋の話を聞いたんだ?」
「えっ…え、あ、あっ!?」
「お前、ボクに恋してるんだよ。自分の感情も制御できないくらい溺れて。…恋の病ってやつじゃないか?」
「う、うるさいなあ!」
これ以上真っ赤になることがないぐらいマーリンの顔が真っ赤に染まる。
とんがった耳も、先だけではなく全て真っ赤に染まっていて、この分だとインナーで見えない首も真っ赤になってるんだろうなと、ロマニはくすぐったそうに笑った。
「…ちょっと待ってくれロマニ、君、わかってたのかい!全部!」
「いや、知らなかったよ。なんとなくそうかな、とは目星はつけていたけど」
「それほとんど分かってるって言ってるようなものだぞぅ!?…はあ、もういい、疲れた。ロマニベッド貸して」
「寝るのか?」
「寝る。当分起こさないでくれたまえ」
「はいはい」
マーリンがロマニから離れ、ベッドに座り靴を脱ぎ始めれば、ロマニも続いてベッドに上がった。
マーリンは驚愕の声をあげ、ロマニをベッドから蹴落とそうとした。
「何してるんだい君は!?私は寝るって言っただろう!」
「うん?ボクも寝るんだよ、今まで管制室に缶詰だったし」
「……君ねえ!」
「はは、マーリンがこんな顔するなんて珍しいなあ。明日は快晴かもしれないな」
「…もう私は寝るからね、邪魔しないでくれ」
「あれ、一人称戻っちゃったのか。可愛かったのに」
「…うるさい、ばかろま、に!?」
ぎゅ、とロマニはマーリンを抱きしめる。腕の中でむずがるマーリンが、心底愛おしかった。

やっと。やっと手に入れた。恋仲になってから長かった。頭を撫でて抱き寄せ、細く息を吐いた。

「大丈夫だ、焦らなくてもいい。感情の制御の仕方はまた教えてあげる。ゆっくりでいいから」
「…わ、分かったから、離してくれ」
ぐいぐいとマーリンがロマニの胸板を押す。何もそんなに嫌がらなくても、と思いながら、ロマニはマーリンの顔を見つめた。
「…は、恥ずかしいから、抱きしめるのは、当分、やめてくれないか」
「…うん、ごめんマーリンそれは無理だ」
「言ったそばから君は!やめないか!もう、こら!」
軽く抱き寄せて、頰に、目元に口づけを落とす。その度に腕の中で彼が震えるのが、たまらなく愛おしかった。
「大丈夫だよ、このままやるなんて言わないから。ボクも疲れてるし」
「な、君、ほんとっ…そういうところだぞロマニ!」
「えっ何が?」

ベッドの中の恋人は小さな喧嘩をする。そんな二人を祝福するかのように、足元にはデンファレの花びらが舞っていた。

コメント