「雪を見に行かぬか」
背後にいきなり気配が現れたと思えば、もう何年も会っていなかった同期の声が聞こえた。
名を伏羲という、始まりの人。身に纏った黒衣を翻しながらかつかつと部屋の中へ入ってくる伏羲に対して、普賢が驚愕したまま急にどうしたのかと問えば、伏羲は椅子に腰掛けて置いてある桃を手に取ってから話しだす。
「だから、雪。おぬし、前に雪が見たいと言っておったであろう」
「ええと、46年前かな?懐かしいねぇ」
勝手知ったるなんとやら。自分の部屋のように振る舞う伏羲の思い出話に返事をしながら、普賢は太極符印の電源を切り、それを邪魔にならないように避けてから、伏羲がしたのと同じように椅子に腰掛けた。
そして、また先に伏羲がしたのと同じように桃を手に取る。かぷりと一口齧れば甘い匂いが部屋に、瑞々しい甘みが口にふんわりと広がる。しかし、よく見ると伏羲はまだ桃にかぶりついていなかった。常ならばここぞとばかりにかぶりつくのに、珍しいこともあるものだ。
彼と同じようなことをしたつもりだったのが、今回は普賢の読みは外れたらしい。
「これを食べたら行くからな。そうだのう、どこが良いか。……どこでも良いか?」
「急だなぁ望ちゃんたら……あぁ、僕、あれが見たいなぁ。魂魄を溶かす雪ってやつ。 誅仙陣 、だっけ?」
望ちゃんの空間宝具、ちゃんと見たことが無かったし。普賢が何気なくそう言えば、伏羲はあからさまに顔を顰めた。何か気に触ることを言っただろうか、と普賢は思案するが、彼の次の言葉を待った。
顔を顰めたまま、伏羲は控えめとは言えない様子で一口、また一口と桃を齧り、咀嚼して飲み込んだ。その一連の流れでさえもまるで絵画のように思えて、普賢は桃を食べる手を止めて、思わず見入ってしまう。
「ダァホめ、おぬしはあの雪に触れたら溶けて消えてなくなるのだぞ?」
「……あ、そういえばそうだね。でも、強く吹雪かせなければ見てる分には大丈夫じゃない?」
言えども聞く耳を持たない普賢に、伏羲はため息をついた。こうと決めた普賢が譲らないことを、伏羲は知っていた。要するに、伏羲が気をつけて雪を降らせれば、自分は消えることは無いのだと、普賢は暗に伝えているのだ。伏犠が気まぐれに雪を強めれば消えてしまうという可能性も考えずに。
当人の普賢はと言えば、既に普段の調子に戻ったのかまた一口桃を齧っている。
「……自然に降るものではないが、良いのか?」
「うん。望ちゃんが見せてくれるって言うのなら、どんなものでも僕は構わないよ。」
例えそれが本物でなくてもね、と普賢は笑う。伏羲はため息を吐いてから食べかけの桃を全て腹の中に納めた。それに続くように普賢も桃を食べ終わり、種を皿の上に転がした。
「陣を敷くから、外へ出るぞ。……あぁ、神界ではやらぬ方が良いやもしれぬのう。どこに被害が及ぶか分からぬ」
「僕達はそれに触れたら溶けてしまうものね。そういえば、あの雪は溶けて水になってしまうの?」
立ち上がり、普賢は外へと続く扉を開く。伏羲もそれに続く。まるで躾のできた犬のようだと、普賢は一人心の内だけで笑う。そんなことを言えば、気まぐれな猫のような側面も併せ持つ彼のこと、機嫌を損ねてしまうに違いない。
「さぁ、のう。そんなこと忘れてしまったよ。だが、おぬしらによろしくないものを…おぬしらの居る場所で使いたくはない」
「……望ちゃんは優しいね」
てくてくと、ゆっくりと歩を進める。普賢の手が伏羲の目線の先でゆらゆらと揺れた。それは特に目立つようなことでは無い。気まぐれに手のひらをぷらぷらと揺らしているようにも見えた。けれど、これは普賢が手を繋いでもいいと考えている時の、2人だけの合図。伏羲は手の動きに気付き、右手でそれを捕らえてするりと指を絡めた。
「たわけ、褒めるでない」
「照れてる?」
「照れておらーん」
横に並んで歩くが、伏羲は羞恥を誤魔化すためか、それとも気が向いたからなのか、普賢とは正反対の方向に顔を向ける。
黒曜石のような、夜の色を閉じ込めた暗い髪の毛で隠しきれない耳には朱が差している。照れを隠しきれていない彼を見るのはいつぶりだろう。そんなことを考えて、ふと普賢はある事に気づく。
「…………」
「……なんだ、急に黙り込んで」
「ううん、ただ……」
逢引みたいだ、と普賢は照れ臭そうに笑みを浮かべて伏羲に伝える。すると、普賢の照れが伝染するように伏羲の顔もみるみると赤くなっていく。
あれ、と普賢は言葉を無くしてしまう。またいつものように口八丁手八丁でかわされると、思っていたのだけれど。
「……これを逢引と呼ばずなんと呼ぶ、ダァホめ」
「あ、これ逢引だったの?」
確認しあってから、お互いに顔を真っ赤にする。こんな風に照れ合うのなんて、もう何年ぶりだろう。もしかしたら、修行を共にした時さえ、こんな風にはならなかったのでは無いだろうか。
こんな甘酸っぱい想いは、もうしないだろうと漠然と考えていた。恋に愛に溺れるには、二人は長い間共に居すぎた。枯れてはいないけれど、熟れているとはとても思えない。冬だとは言わないけれど、春が過ぎ去ったのは確かだ。例えるならば、秋が妥当なところだろうか。
もしかすると、久方ぶりの逢引にらしくもなく伏羲は気分が浮ついているのだろうか。そう普賢は考え、納得する。だからあんな、急に誘ってきて、有無を言わさぬ調子で。突然の来訪もいつも通りではあったけれど、確かにどこか違和感はあった。
「……ねぇ望ちゃん、僕あそこがいいな。ほら、前に元始天尊様に薬を盛った時に行った、あの河原」
「昔とは様相が変わってしまっているかもしれぬが…いいのか?あそこで」
「うん。僕、あそこで望ちゃんと雪が見たい。」
念を押すように頼めば、伏羲は空いた手で無造作に頭を掻く。照れを隠す時に、太公望がよくしていた仕草を見て、普賢は知れず笑みを浮かべる。
「ほら、早く行かなきゃ日が落ちちゃうよ。」
「何故笑う……」
渋い顔をする伏羲の手を加減しながら引っ張り、普賢はついと振り向いた。そこには、満開の笑顔。
「君との逢引で、笑みが浮かばないわけないじゃない」
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