彼の人/伏普

※捏造しかない

「なにしているの?」

背後から声をかけられて、王奕はついと後ろを向いた。そこには、なんとも可愛らしい幼子がひとり。ほうほうに跳ねる水色の猫っ毛に、透き通る宝石ような紫の大きな瞳。背丈よりも幾分か大きな服を体に纏い、こちらの様子を窺っている。

「釣りだ」
「つり?」
「少し待っていろ」

おぼつかない足取りで王奕の横まで歩いてきた少年から目を離し、王奕は水面へと視線を移らせる。王奕の持つ竿と、竿から伸びる糸の先を交互に見る様は愛らしいと言えばいいのか、無垢と言えばいいのか。
くん、と水面に浮く針が川に引き込まれる。何度か引いた後、王奕は風を割く音を鳴らしながら竿を勢いよく引き上げた。針には1匹の魚がかかっていた。それを見た少年は驚愕の声を上げる。もの珍しかったのだろう。

「すごい!すごいね!」
「そんなことは無い。コツを掴めばこれくらい、お前でも出来るだろう」
「僕でも?」
「あぁ。……だが、お前にはこっちの方が良いかもしれないな」

王奕は魚を放してから、ズボンのポケットに手を突っ込みそこから縫い針を取り出す。少年は王奕の手の中にある針と先ほど魚がかかっていた針を見比べて、首を傾げた。

「曲がってないよ?」
「あぁ。だからこれでは釣りはできない。だがお前にはまだこれでいいだろうよ」

先は尖っているから気をつけろ、と王奕は言いながら恭しく少年の手を取り、柔肌を傷つけないように気をつけながら針を握らせた。

「今日のことは誰にも言ってはいけない。いいな」

王奕がそうつぶやくと、少年の視界はぐらりと揺れる。なに、と少年がうわ言を漏らすが、すぐに意識を飛ばす。王奕は釣り糸から釣り針を外し、ズボンのポケットに放り込んだ。時は刻刻と近づいている。そろそろ放浪することもやめねばなるまい。
少年が目を覚ましたところには、針のついていない釣り竿と、手の中には縫い針があった。自分より少しだけ大きく、髪も目の色も自分とは全く違う少年の姿を見つけることは出来なかった。

妙な圧迫感で目が覚めた。目の前には満足そうに笑みを浮かべた始まりの人こと、伏羲がいた。懐かしい夢を見たものだなぁ、と普賢は思案する。あれはいつだったろう。そう、今から何百年も前のこと。何故あの森に立ち寄ったのかも思い出せない。水の音に誘われたことは覚えている。
ふと、伏羲の顔が目に入る。筋の通った鼻に、今は閉ざされているが大きな瞳。夜の色とも空の色ともとれぬ、何物にも染まらない黒を纏った肩にかからないくらいの髪の毛。あの人と、そっくりだと思った。生き写しと言ってもいいくらいだ。始まりの人である彼なら、あの人が誰なのかも分かるのだろうか。
けれどあの人は誰にも話してはいけないと言った。普賢は伏羲の体を抱き締め返し、ゆっくりと眠りに落ちていった。
普賢の意識を飛ばしたことを確認してから、伏羲は目を開ける。先ほどの普賢の視線が気になったのか、抱き直しそっと囁いた。

「……誰にも言ってはいけない。いいな。…………なーんて、のう」

声に出さずに喉の奥だけで笑う。思えばあの時の少年は普賢だったのだろう。魂がそうだと訴えている。彼に渡した縫い針は、今は自分の手にある。太公望の頃にもらったあれは、そうだったのだ。きっと普賢はそんなこと忘れていたのだろう。だからあんな簡単に手放せたのだ。
そうでなくては、困る。伏羲は再度眠りにつくために、目を伏せた。夜は更ける。彼らを覆い隠すように。

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