口にすれば二文字にしか足らないその言葉を、彼に伝えることはきっと出来ないだろう。
「望ちゃん、そろそろ起きて」
普賢は、膝の上であどけない顔をしてすやすやと眠っている太公望のだらしない頬を控えめに叩く。太公望はううんと唸りはしたが、どうにも起きる様子が無い。困ったなぁ、と普賢が独りごちる。
しかしその顔にはほんのりと笑みが浮かんでおり、先程まで頬を叩いていた手は、頭巾を外している事で露わになっている頭をさらさらと撫でている。普賢はほんわりと気分が浮上するのが分かり、自然と口角が上がるのを抑えられない。どこが困っているものか。
太公望に膝枕をするのは嫌いじゃなかった。確かに身動きが取れなくて、出来ないことが増えて不便を覚えることもあるが、大抵のことが後に回してもいいことばかりで、太公望に膝枕することの方が優先だ。それに、いくら膝枕をしているからと言って太公望の頭をどけることくらい自分にだって造作でもないこと。それをしないという事は、この状況が満更でも無かったりするからだ。足が痺れることもあるが、太公望の頭を撫でたり、髪を梳いたり、空を眺めたり、太公望の寝言を聞いていたり、暇つぶしになりそうなことならそこかしこにある。
そして何より、誰かに頼るということをしようとしない太公望が自分に甘えてくるという事実が、どうしようもなく普賢を高揚させた。
けれど、もう日が傾いてきてだんだんと気温が下がってきた。太極符印を使えば温度を安定させることも容易いけれど、そんなことのために宝具を使うのもどうかと普賢は使いもしない太極符印を出現させたままぼんやりと考える。
いっそこのまま太公望が起きるまで待って、起きた時の寒さに体を震わさせても良いかとも思った。そうすれば、彼は「その太極符印を使えば適温にする事など造作もないであろう!」なんて言うに違いない。そんな彼をありありと脳に焼き付けられて、くすくすと笑みが漏れる。
こんなに彼のことを知っているのに、彼が自分に甘えてくる理由を普賢は知らなかった。彼はそんな事を人に話すような人ではないし、普賢もわざわざ詮索するような質では無いからだ。詮索したところで彼の口八丁手八丁ですり抜けられるに違いないのだ。
普賢はふるりと体を震わせてた。日が赤く燃え始めた。このままでは本当に夜になってしまうだろう。
「望ちゃん、夜になっちゃうよ、起きて」
先程よりも回数を重ねて頬を叩いた。太公望は唸りながらうっすらと目を開ける。寝ぼけ眼で何かを呟いている。
「なぁに?」
「……ぁ」
「ん?」
「…………」
何かを呟いてから、太公望は押し黙る。何事かと普賢が太公望の次の言葉を待っていれば、彼は勢いよく体を起こした。そのまま立ち上がりぱんぱんと服を叩き、服についた草を払っている。そんな太公望の様子を、普賢は座り込んだまま見つめていた。
「立てぬのか?」
「望ちゃんがずっと膝を使ってくれてたおかげでもう感覚がないみたいだ」
「情けないのう、十二仙のくせに」
それと十二仙は関係ないんじゃないかなぁ、と普賢がぼやけば太公望はすっと普賢を担ぎ上げた。
「連れていってくれるの?」
「おぬしがこのまま凍死でもしたら忍びないからのう」
「仙人はそんな事で死んだりしないよ」
「分からんぞ〜、おぬしなんてひょろっひょろだからピキーンと凍ってパキンと折れてしまうわい」
軽口を叩きながら白鶴洞へと向かう。太公望の気まぐれな昼寝は、普賢の膝を数時間に及んで占領して、目を覚まして普賢が立ち上がれなくなったら担いで洞へ帰るのが常だった。初めてされた時こそ戸惑ったが、3度目を超えたあたりでもう慣れてしまった。これで何度目だろうか。時間の感覚に疎い自分達がそれを思い出そうとしても無理がある話だった。
修行をサボタージュしてまで太公望がした事は、普賢の膝での昼寝だった。きっとまた師である元始天尊からお小言をもらうに違いないのに、自分の元に来る太公望のことが、普賢には分からなかった。
懐かしい夢を見た。普賢はむくりと体を起こしてそう思った。
神界での暮らしが安定してから、幾日が経っただろうか。以前まで普賢の膝を占領していた太公望は、今は伏羲と名と姿を変えて、始まりの人の力を元始天尊の千里眼に見つからないようにしたり、気配を消したりと無為なことにばかり使ってはのらりくらりといろんな地を渡り歩いているらしい。時々、人間界のどこかで見かけた等という情報を耳にするけれど気づいた頃にはもう姿も形もついでに気配さえも、跡形もなくなっているらしい。
気まぐれで猫のような彼のことだ。かつて旅を共にした四不象や楊戩のことをからかったりしながら今もどこかで生きている。けれど伏羲は、普賢と再び会うことは無かった。
封神台から解放された時、女禍との戦いで絶望しかけた彼の元へいの一番に駆けつけて、彼と他愛もない掛け合いをした。
変わってないと思った。伏羲は太公望であり、太公望は伏羲で。自分の知らない姿や名前になってしまおうが、普賢にとって彼は「望ちゃん」以外の何者でも無かった。
戦いを終えれば、また彼と他愛もない話を出来るだろうとなんとなく、根拠も無く予感していた。何年後になるかなんて分からなかった。自分は魂魄体で、後に神となったけれど、伏羲はどうするのか、どうなるのかなんて自分には予想も出来なかった。
結局、死んだとばかりに思われていた彼は生きていて、のらりくらりとどこかをふらふらとしている。
会いに来てくれてもいいのになぁ。寝台から起き上がり、普賢は身支度を整えながらぼんやりと考える。別に約束なんてしていない。けれど、自分と彼は何かと縁があったと思う。今もその縁は切れていないといい、とも思った。ここまで考えて、普賢はぴたりと体の動きを止める。
何故そんな事を考えるんだろう。
同じ師を持ち、同期で、聞仲との戦いで同じチームになり、封神台が解放された時は一番に彼に喝を入れに行き。ただの偶然だ。全部、自分と彼の縁など。なのに何故それに必然を求めようとする自分がいるのだろう。
僕は彼に何を求めている?
仙人界の教主となった楊戩の元へと赴いて、伏羲は現在どこにいるのかをそれとなく聞いてみる。普賢が突然来た理由を会話の中で察したらしい楊戩は、分からないとだけ零した。
相変わらず始祖の力を使っているようで、最近は手がかりすら取りにくくあるらしい。前に彼を知己の人が認めたのはもう何十年も前だと言う。
彼の足取りを掴めなくなってからそんなに経つのか。普賢は人知れずそう考えて、また来ると告げて仙人界を後にした。相変わらず人を喰うことには長けていることだ、などと思案しながら。
また別の日。普賢は人間界に降りたっていた。視察だ、等と嘯いて降りてきたが、言うところのサボタージュである。普段真面目に神様をしているのだから、大目に見てくれても構わないだろう。特に問題なく世界は回っている。今自分1人が欠けたところで神界も人間界も何も無かったように回り続けるのかもしれない。
普賢が降りたったのは、かつて太公望であった彼と共に元始天尊の隙をついて人間界に降りたった所と同じ場所だ。何年経ってもその場所は大きく様相を変えることはなかった。時には大きな水害で荒れ果てることもあるようだが、時はそれをすべてゆっくりと洗い流すように再生させる。それは自然の流れ。
霊穴のある岩の上で、普賢は水の流れをじぃと見つめる。そこには自分の姿しか映っていない。当たり前だ、横に彼はいないのだから。
普賢は思いついたように靴を脱ぎ、水に濡れぬように裾をたくし上げて、川の流れに足を取られぬように注意しながらそっと足を落とす。魂魄体なのだから水に濡れるでもないことは理解していたが、癖のようなものだ。魂魄体だからといって五感全てがなくなる訳では無い。水に足をつければ、ひんやりとした冷気が足を包んで気持ちがいい。霊穴の近くだからなのか、だんだんと気が静まっていくのを感じた。そのまま1人でぱしゃぱしゃと音を立てながら水を跳ねさせて遊ぶ。実際には、自分の足で水を跳ねさせてるわけではなく空気の振動だけで水を跳ねさせているだけなのだが。
普賢の回りを水しぶきが舞い、きらきらと光を反射して小さな音を立ててまた川に還った。
幾らか時間を潰してから川から上がり、脱ぎ捨てた靴を拾い上げて足をを入れ、たくし上げた服を戻してから、また岩の上に座った。水面を見つめて、そこに映る自分の顔を見て普賢は無意識にため息を吐いた。
瞬きの瞬間、水面がきらりと光る。何だろう、と普賢は目を凝らして見つめる。どうやらそれは針のようであった。釣り糸を辿って下から斜め下、横へと視線を移す。
そこには黒衣を身にまとった、始まりの人、かつての太公望、かつての王天君、かつての王奕、そして、今は伏羲という名前の、数日前から普賢の頭から離れない人が、そこにいた。
「釣れる?」
自分でも驚くくらい穏やかな声が出た。違う、こんな事を聞きたいわけじゃない。でも、彼の次の一言を求めてしまう。
「おぬしがくれたこの針では、釣れるものも釣れぬよ」
ヒュッと音を立てて釣り針を引き上げて、針を手中に収めた。その針は、釣り針では無かった。縫い物をする時に使う針。それでは釣りなどできるわけが無い。
「でも、僕には釣れたみたいだ」
彼の姿を目に焼き付ける。忘れないように。懐かしい声を耳に焼き付ける。忘れないように。彼の気配を体に刻みつける。忘れてしまわないように。
「まんまと釣らてしまったようだの」
かかか、といつもの笑い方。変わらない。やはり彼は彼のまま、始まりの人になってしまったのだ。
「望ちゃん、前に大物を釣り上げたじゃない。僕だって負けてられないよ」
確か、あの時釣ったのは虹鱒だったろうか。なかなかの大物だったけれど、なまぐさを食べられなかった自分達には本当に意味の無い行為だった。
「わしも甘くなってしまったのう」
伏羲が言葉を紡ぐ度に。彼の気配が濃くなるごとに。距離が近づくごとに。胸の鼓動が早まっていく。
唇を寄せたのは、どちらが先か。触れ合うだけの口づけは次第に深まっていき、はしたなく口の端から唾液だ垂れる。名残惜しそうに銀の糸が切れてしまう。忘れたくなくて、伏羲から送り込まれた唾液をこくりと飲み干した。
「これで、おぬしはわしの事を忘れないで済むな」
わしゃ、と頭を撫ぜられた。これでは立場が逆だ。昔は自分が、彼の頭を撫でていたのに。ざぁと風が身を包む。次に目を開けた時には、普賢以外誰も、何もいなかった。
洞に戻っても、寝台に身を委ねても、どくりどくりと心音が止むことはなかった。伏羲が頭から離れない。目を開けていればどこかに伏羲がいる気がして探してしまう。目を瞑れば暗闇に伏羲の気配を感じるような気がして探してしまう。思案の海に溺れようとすれば伏羲のことしか考えられない。眠りにつけば伏羲と過ごした短い時間を夢に見て、気がつくと跳ね起きている。どうしてしまったんだろう。寝ても覚めても、伏羲が頭から離れない。最近の自分がおかしいことくらい誰に指摘されずとも分かる。この感情はなんなんだ。
頭の隅では、感情がなんなのか理解していた。でも、それは認めてはいけない。認めてはいけないんだと、心が警鐘を鳴らす。けれど、彼の気配が、声が、姿が朧気になっていくごとに。もう1人の自分が、自分を責め立てる。
きっと認めれば楽になれると。そんな甘いささやきに対して、でも、けれど、だって、などと曖昧な言葉で先延ばし。
全て今更なのだ。こんな気持ちを持つのも。こんな感情に翻弄されてしまうのも。気付かず涙が頬をつたう。
その時に、きっと心の枷も解けてしまった。溢れてしまう。彼への想い。目から、口から、溢れてしまう。自分にさえも零した事など無かったのに。
愛していた。彼を、誰よりも。彼への愛慕は自覚しないままに心の奥底に眠っていたはずなのに。
そして彼に会って恋をしてしまった。惹かれてしまった。気づいてはいけないのに。
きっとあの時釣られたのは自分だった。川に返されることを知らないままに腕の中で温かさを触れてしまった。火傷してしまうくらいの温かさを。もう川に帰ったところで、熱を持て余してしまうだけなのに。
自分では彼を釣り上げることなど出来なかった。出来はしなかったのだ。あんなに大きな彼を釣り上げることなど出来はしない。勢いに負けて、竿ごと持っていかれてしまうのだ。
彼は、自分は彼のことを忘れないで済むといった。そんなわけがなかった。自分は彼のことを忘れてしまう。忘れたくなくても。彼の熱だけを残して、それ以外は全て思い出に溶けてしまう。いつか熱も冷えてしまうのではないかと、普賢は震える肩を両腕で抱きしめる。そんなことは気休めだ。分かっている。
夜は明ける。かの人もきっと、どこかでその日を見ているのなら。きっと幸せなことなのだ。限界を訴える瞼を眠気に預けて、普賢は意識を飛ばした。
「偶然じゃ」
朝日が始まりの人を照らす。眠っていたのか、起きていたのか、それすらも判別できない。始祖となってしまった太公望だった人、伏羲にはもう眠ることすら娯楽になっていた。
「懐かしい景色を見つけたから、寄っただけのこと」
どこからか釣り竿を取り出す。糸の先には、曲がっていない針。
「次もきっと偶然だ」
次の偶然は、何年後だろうか。それとも偶然などもう起きはしないのかもしれない。
空を割く音を立てて、ぽちゃんと水面に針が浮かぶ。
「これだから、釣りはやめられないのだよ」
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