ボクと1号は同棲を始めた。
同棲を始めてからの日々は実に穏やかなもので、カプセルコーポレーションで働いて、仕事が終わってからは話題になっていた映画やヘド博士がお勧めしてくれたヒーローが活躍する映画をホームシアターで見たり、1号と一緒に選んで育て始めた花の世話をしたり、1号が作ってくれたお菓子をボクが淹れたコーヒーと一緒に楽しんだりして過ごしている。
レッドリボン軍に居た頃は、軍内の見回りに戦闘訓練、ボクたちガンマの性能テストをこなしながらヘド博士の研究の補助をして、それ以外はほぼずっと司令室にあるカプセルの中で過ごしていた。自由時間などは無く好きに使える場所だってヘド博士の研究スペースかエネルギー補給用カプセルくらいしか無くて、あの頃のボクたちに自由などは無くて、レッドリボン軍の外に出た今だからこそ、あの基地での扱いに対して感じた不満は正しかったのだと思えた。
それらの不満が全て解消されて、しかも今は大好きな1号とふたりきりの同棲生活中。浮かれるなって言う方が無理があると思う。ただ、浮かれているのはボクだけじゃない。ボクへの恋愛感情から浮かれているのを何度か指摘したせいか1号も浮かれているのを隠さなくなってきていて、それが嬉しい反面ボクはしっかりしなきゃな、なんてらしくない事を考えたりしている。
ぴゅう、と吹いた風が羽織っているパーカーの裾をはためかせる。眼下にある植木鉢の中でノースポールとビオラ、その隣にある真っ赤なバラが可愛らしく揺れた。手に持ったじょうろで水をあげれば、花びらについた水滴が室内の明かりに反射してきらきらと光る。1号と一緒に選んだ花と、ボクから1号に贈った花。スーパーヒーローであるボクたちがこんなにも穏やかにガーデニングに勤しんでいるなんて、なんだかおかしな話だな、なんて思った。
「2号、ここに居たのか」
バルコニーから部屋に繋がる扉から1号の声が聞こえる。振り返れば1号はボクの手にあるじょうろに気付いたのか「水をやっていたのか」と呟いた。
「ああ。今日はまだ水、あげてなかっただろ?」
「そうだな……ありがとう、2号」
「いいよ、これくらい」
空っぽになったじょうろを床に置いてバルコニーに置いてある椅子に座る。手招きすれば、1号も向かいの椅子に座った。
1号の手には、切り分けられた林檎の乗った皿がある。それを机の上に置いて、1号は「切り分けたから、食べると良い」と言った。
「林檎か。もらったのか?」
「ああ。おすそ分けしていただいた」
1号が皿の上に乗ったフォークを手に取り、林檎を突き刺して一口齧る。ボクも続いてフォークを手に取って林檎を食べた。甘酸っぱい果汁が口内に広がり、自然と笑みが浮かぶ。よく熟れていて、とても美味しい。
「なあ1号、綺麗だな」
机に頬杖をついて、食べかけの林檎を咀嚼して飲み込み夜の街並みを見下ろす。西の都でも特に栄えているこの区域は、日付も変わって人々は眠りに就くであろう時間でもなかなか街の光が消える事は無い。背の高いビルに灯る明るい光に、地面を走る車のライトが描く光の線。空を見上げれば、黒々とした夜空に浮かぶ小さな星々が雲の間から顔を覗かせている。
「……ああ」
星空を眺めるのも、夜の街を眺めるのも初めてじゃない。よみがえってから何度も見て、その度にきらきら光って綺麗だと思っていた。今日は一層綺麗に見える。1号がすぐ傍にいるからだろうか。
「おまえが守った光だ」
思わぬ言葉に、咄嗟に1号の方を向いた。1号は穏やかな、けれど頼もしいものを見るような笑みを浮かべている。まるで、誇らしいものを目の前にしているように。
「ボクが?」
「そうだろう。おまえがセルマックスに向かって飛び立たなければ……あいつの戦力を削がなければ、あの場に居たわたしたちだけでは倒し切れなかったかもしれない。制御の効かない化け物の手で、世の中が無くなっていたかもしれないんだ」
「だけどさ、とどめを刺したのは孫悟飯なんだろう? そりゃ、ボクがああしたからあいつの戦力を削ぐことが出来たのは良かったよ。まあ……倒し切れなかったのが悔しくないとは言い切れないけどさ」
そう返せば、1号は少しだけ目を見張って驚愕の色を窺わせる。机の上で緩く組まれていた指先に、力が入ったように見えた。
「……そう、なのか」
頬杖をついたまま目を閉じてあの日を思い出す。攻撃を何度浴びせかけても怯む様子もなく向かってきた化け物。孫悟天とトランクスが合体したらしい姿で、頭突きをする形でセルマックスの頭にヒビを入れた。それまでどんな攻撃を浴びせかけてもほとんど傷がつかなかったセルマックスにも明確に攻撃が効いた瞬間だった。
その後にした決断に、行動に躊躇は無かった。だけどボクだって、エネルギーを全て集中させてあいつに突撃したのだから、自分の手で撃ち抜いてみせたかった。
「意外だった? だって、あいつの頭を貫いてやるつもりでフルパワーで突撃したのに、外しちゃうなんてさ。まあ……今思えばって話だよ。セルマックスを倒し切るだけの一助になれたから、あの選択に後悔はしていない。何より、おまえが生き残ってくれたからな。それだけでボクは満足だよ」
「……なんだと?」
1号の指先から力が抜ける。未だに表情は強張ったままだ。当たり前の事を言っただけなのに、何がそんなにおかしいのだろう。
「……わたしが死ななかったのは、結果論だろう。あの戦闘は誰が死んでもおかしくはなかった。わたしも、共に戦った仲間たちも……ヘド博士も。もちろん、おまえに博士の後を託されたからには、命に代えても守るつもりだったが」
「だから、おまえにヘド博士の事を頼んだんだよ。おまえならヘド博士を絶対生かしてくれると信じていたし、そのためならおまえも生きてくれると思ったからな」
そう返事をすれば、とうとう1号が立ち上がる。常にない様子を見て、頬杖をつくのをやめて1号を見上げた。夜空を背にした1号の顔がよく見えなかったけれど、肩が戦慄くように震えているのはよく見えた。
「…………おまえ、何を言っているのか、分かっているのか? わたしよりも、ヘド博士の生存の方が優先されるべきだろう……!?」
「……あ~、そうかもね。まあ、確かにそうだ」
「おい、こんな時にふざけた言い方をするな。笑い事では無いんだぞ!? 優先されるべきはわたしの命ではない、ヘド博士の生存の方が優先されるべきだ。そうでなければ、ならない……!」
絞り出すような声だった。こんなに苦しそうな声を、前にもどこかで聞いた気がする。そう、確かボクが突撃しようとしていた事に気付いた1号に「もう遅い」と断じた時──。
──……だったら、オレも……!
遠くで救急車が走るサイレンの音が聞こえた。思わず立ち上がり、俯いたままの1号の顎を指で掴んで上を向かせる。1号がひどく苦しそうな顔をしているのが切なくて、思わず口を塞いでしまって、おどけてみせたかった。
でも、今そんな事をして1号を騙して言いくるめるような事は、絶対にしたくない。
「……ボクは、おまえが生きてくれたら、それで良かったよ。それじゃダメなのか」
「そん、な…………どうして……そんなことを言うんだ……どうして、何故……」
「誰よりもおまえが大事だからに決まっているだろ」
困惑、あるいは驚愕。1号は絶句してボクの事を見つめている。そんなにおかしなことを言っただろうか、なんて思ったが1号にはボクがあの時胸に浮かべた想いは届いていなかったのだろう。
誰よりも正しく、生真面目な1号ならば、きっと1号ひとりのためにボクがあの選択をしたのだと信じたくないのかもしれない。少し離れたところで、サイレンの音が止まった。
「軽蔑した? それとも、失望した?」
これじゃあスーパーヒーロー失格だ。誰よりも好きで、誰よりも生きて欲しくて、誰よりも笑っていて欲しかったひとに、こんな悲しい顔をさせてしまうなんて。
誤魔化すようにわざとらしく苦笑を浮かべて自嘲気味に笑っても、1号からの反応は乏しい。未だに困惑の表情を浮かべてボクのことを真っ直ぐに見つめている。どこまでも真っ直ぐな、ボクを一直線に射貫く正しさを伴った目線が痛い。きっとこれは赦してもらえないだろう。
それでも良い。それでもボクは、1号に生きて欲しかったのだから。
「…………正直、よく、分からない。軽蔑……しているのかもしれない」
真っ直ぐにボクを捉えていた目線が伏せられる。先ほどまでは痛いとまで思った目線がボクから離れるのが寂しくて、1号の顔を両手で掴めば驚いたのか1号がまたボクのことを見る。
「こっちを向いてくれ、1号」
「ッ…………おまえがっ……変な事を、言うからっ……!」
「変な事? 失礼だな、ボクは何もおかしいことは言っていない。まあ、おまえからしたら思わぬ返答だったかもしれないけれど」
ボクがこっちを向けと言ったからか、1号は先ほどのように目を逸らそうとはしなかった。それでも1号の目には迷いが生じていている。
軽蔑したのか、失望したのかと問えば、分からないと言った。きっと1号は混乱しているのだ。それならもう、はっきりと伝えてやろう。
「なぁ。おまえのために飛んだって言ったら、おまえはボクのこと、嫌いになる?」
「……!!」
「例えおまえから嫌われたとしても、ボクはおまえのことが好きだし、愛しているよ。……勝手に好きでいるくらい許して欲しいな」
そう言って笑えば、1号がくしゃりと表情を崩す。ああ、そんな顔をしないでくれ。1号にそんな顔をして欲しいわけじゃないのに。
「……嫌いになんて、なれる訳が無いだろう! おまえしか、好きになどなれるものか……!」
「…………そうか。そう、か……」
ボクだけ。そうか、ボクだけか。ここで笑みを浮かべるのもなんだか違う気がするけれど、1号がボクの事を好きでいてくれることがすごく嬉しくて、口角が上がってしまう。
「……おまえはオレを連れて行ってはくれないんだな」
「当たり前だろう? 愛する人を連れて一緒に死ぬなんて、誰がするもんか。おまえを生かすためなら、ボクはなんだって出来るさ」
そう言えば、1号は眩しそうに目を細める。黒々とした夜空が広がり、あんなに明るく灯っていた街に広がる明かりもいつの間にか少なくなっているこの場所で、何が眩しいと言うのだろう。
「…………ひどい男だな、おまえは」
「ええっ? そ、そうか……?」
まさかこのタイミングでそんなことを言われるとは思ってもみなかった。派手な罵声でもなければ、嗜めるような語調でも無い。そこにあるのは、きっと、諦め。
「だが、おまえを好きになったのはオレだ。オレは、おまえにも生きて欲しい。傍に、居たかったんだ」
「1号……」
同棲を始めて、誰よりもすぐ近くに、すぐ傍に居られる。そんなことを考えて浮かれていたけれど、もっと、もっと1号と傍に居たい。もっと、1号の傍に居られる理由が欲しい。
1号の顔から手を下ろして1号の両手をボクの両手で優しく包む。1号の瞳を見つめながら、祈るように。
「結婚しよう、1号」
「………………は?」
「1号、ボクと結婚しよう。そうしたら、ボクたちずっと一緒に、傍に居られる」
「おい、何を急に……」
思わず求婚の言葉が口から出てしまったけれど、しまった、と気付く。
「あっ!! しまった……ボク、1号にプロポーズする時はもっとかっこよく決めようと思ってたのに〜……! なあ1号、さっきの気持ちも本当なんだけどさぁ、もう一回! プロポーズ、やり直しても良いか!?」
「…………ふっ、ははっ……」
「な、何で笑うんだ……!?」
プロポーズしたら笑われた。何でだ。さっきまで1号はあんなにも苦しそうな顔をしていたと言うのに。
「……ああ。それじゃあまた今度、かっこよくプロポーズしてくれるか」
「ああ! もちろんだ!」
1号の手を掴んだまま移動して1号の事を思いきり抱き締める。1号はおかしそうにひとつ笑い声を上げて、悲しそうに笑った。そんな笑みを見たくなくて1号に触れるだけのキスをすれば、また1号は寂しそうな笑みを浮かべる。
「……なんでそんな辛そうに笑うんだよ」
「わたしは今、そんな顔をしていたか」
「ああ」
「すまない。だが、幸せなんだ。本当だ」
「……おまえが嘘をつかない事くらい分かっているから、疑ったりなんかしないさ」
そう言えば1号は目を細めて笑って、抱き着いたままのボクに抱きしめ返してくれた。
そのまま1号は、ボクの胸の中から離れようとはしなかった。だから、再度抱きしめ直して1号の体内から鳴る低い駆動音に耳を澄ませていた。
「2号」
「なぁに、1号」
どのくらい1号と抱きしめあっていただろうか。1号がボクの名前を呼んで、お互いの顔が見れるように少しだけ体を離した。1号は俯いていて、綺麗な弧を描くトサカとまろい頭に光が反射している。
ふと1号の後ろを見れば、黒々とした夜空が広がっていた空に淡く光が広がり、群青色の夜明けが広がっていた。眼下に広がる街並みはほとんど光が灯っておらず、あんなに賑やかだった街は静まり返って沈黙している。いつの間にか夜明けが近づいていたらしい。
人々が未だ安らかに眠っている時間。この柔らかな時間を、ボクが守れたのだとしたら。
1号の生存を一番に望んで飛び立ったけれど、やはりその選択肢は間違えてなかったのだと、これで良かったのだと思えた。きっとボクは、スーパーヒーローになれたのだ。この世界の。腕の中に居る、愛しい同型機の。
俯いたままだった1号が顔を上げる。目が合った。1号の目には戸惑いや不安は無さそうで、ただこちらを見つめる、力強さがそこにはあった。
「…………好きだ。おまえが、誰よりも、きっと」
「無理するなよ、ボクらには他に守るべき存在がいるだろ?」
「本当だ。だが、おまえだけを一番に思う事は出来ないかもしれない。それでも、おまえは……オレの事を、愛してくれるか」
愚問だった。ボクはどんな1号でも恋をしている。惹かれている。愛している。この世界の誰よりも。
「あぁ。おまえのことを誰よりも愛すると誓うよ」
そう言えば、1号がボクのパーカーをぎゅっと握りしめる。視界の端に映った皿の上に置いてある林檎が、少しだけ茶色く濁っていた。
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