メランコリー・ドリーム/ロママー

「はあ…」
管制室から自分の部屋までの道をロマニはゆっくりと歩く。歩く足取りは重く、ひどく疲労しているのが伺えた。
ロマニは最近、無理して徹夜ばかりしていたせいか、ダヴィンチに指摘されなければ気づけないほどに自分の部屋に戻っていなかった。それはつまり睡眠を取っていないということに他ならず、詰問してくる彼女の顔は恐ろしく、人類最後のマスターやそのサーヴァントであるマシュにも気を使われる有様だった。こんなことでは、最高司令官の名前が泣いてしまう。代理ではあるが。
おそらく部屋に戻らずに管制室と医務室を行ったり来たりしていたこともダヴィンチにはバレているのだろう。ロマニは強制的に一日の休みを言い渡され、管制室から追い出されたところであった。
マーリンを夢から追い出して一週間が経った。あれから一度もあの夢は見ていない。脳を限界まで使い潰し、少しだけの仮眠時間を泥のように眠り、夢を見るだけの余裕を持たないようにしていた。
一度だけ夢らしい夢を見た気はするが、あれは人理焼却の未来が見えてからずっと見続けている夢だったので、逆に安心してしまった。
自分は夢の中で安らぎを与えられる程の存在ではない。忘れてはいけない。今も自分は走り続けているのだと。
本来ならば休んでいる暇もないのだが、ダヴィンチに追い出された以上管制室には戻れない。手の回る彼女のことだ。ロマニが休みに入っても仕事をしないように、医務室にも別のスタッフが用意されているに違いない。それ以前に激務により肉体的にも精神的にも限界が近づいており、どちらにせよ休息を取らねば体調を崩してしまいかねなかった。
タブレットに持ち帰った仕事は多少あるが、今の自分の頭では碌にデータの整理すらできないだろう。限界まで使い切った脳は休息を求めており、ちょっと無理しすぎちゃったかなあとロマニはため息をついた。
タブレットを充電器に挿して机の上に置き、詰襟を緩める。それだけで少しだけ楽になれた気がして、思っていた以上に自分は気を張っていたのだろうか、とロマニはどこか冷静に自分を見つめ直していた。
制服を脱いで、インナーとスラックスだけになる。シャワーは一度眠った後でも構わないだろう。とにかく、今は早く布団に入って眠りに就きたかった。
今日もあの夢は見たくないな、と思った。ロマニはあの時、何故自分があのようなことをしたのか理解できなかった。納得ができなかった、とも言えるだろう。
マーリンが、かのアーサー王の本来の名前を口にした事がなんだというのか。彼は宮廷魔術師として彼女に、国に仕えていたのだからその名前が出てきた所で不思議ではない。いいやむしろ、今までその名前が出てきていなかったことの方が不思議なのではないのだろうか。
夢の中で、自分は彼といつもどんなことを話していただろう。夢の記憶なんてすぐに薄れてしまうから全く気にしたことがなかった。全然思い出せなくて、ロマニはもどかしい気持ちになる。
そこまで思っても、やはりロマニはあの夢をまた見たいとは思わなかった。マーリンと顔を合わせづらいのもそうだが、あの夢は自分の存在をひどく不安定にさせるから苦手だ。
マーリンのいないあの空間を見たときに、初めてあんなにも不安になった。寂しく思えた。それならいっそ、あの悪夢の方がマシと思えた。
くあ、と大きく欠伸をする。寝台に横になり布団を被れば、自然と瞼が降りてくる。もう寝てしまおう。これだけ疲れているのだから、夢なんて見ないだろう。
そう、ロマニはたかをくくっていたのだ。

ああ、自分は夢を見ている。あの夢だ。けれど、いつもと少し様子が違っていた。
いつもは日光が燦々と入り込み明るい室内は、ひどく薄暗い。空気も冷え切っていて肌寒く、息を吐けば白くなって出て行きそうだった。
この間の夢のように、マーリンはいなかった。その事実に安心するような、以前感じたような寂しさを覚えてロマニはふるふると頭を振って思考を無理やり中断する。
ひどく薄暗いが、目が慣れてきたのか見覚えのある景色が映る。いつもの机に、日の入らない窓。光を遮るカーテン。そして静まり返ったキッチン。
そういえば、キッチンの方にロマニは足を運んだことがなかった。いつもはマーリンがそこに立っていて、自分から足を運んだのは、前の夢でマーリンの腕をつねった時ぐらいだろうか。少しだけ気になって、キッチンへと足を進めた。
「……これって」
そこには、切り分けられたタルトタタンが置いてあった。一切れ分だけ無くなっていて、あんなに温かかったそれはひどく冷え切っていた。
美味しかったのに。お菓子を作るマーリンの姿がとても新鮮で。いつもの食事を作る時よりもどこか楽しそうにしていたのを、ロマニは覚えていた。
楽しそうに、楽しそうに笑っていた。彼がどうして自分のために料理をしてるのかなんて、理由なんて知らない。
いらないと突き返せばよかったのに。マーリンが作った食事なんて、信用できないからと。思えば、あの頃から無意識のうちに惹かれていたのだろう。
だって、目の前に置かれた、マーリンが作ったタルトタタンを見るだけで、こんなにも胸が締め付けられるのだから。
ああ、彼は確か、何と言っていたか。作ったならきちんと片付けなければ、と言っていたのだったか。そういえばあの時自分は、マーリンに出て行けと言っただけで他のものは何も片付けてはいない。
周囲を見渡せば、すっかり冷え切ったティーポットが机の上にあって、床には紅茶と割れたティーカップが散乱していた。
投げ捨てられたようにキッチンに置かれていたフォークを手に取って、もう一度、タルトタタンを口に含む。甘い。煮詰めたリンゴの独特の食感。少し湿気た、甘いタルト生地。
きっとこれも、レシピ通り作られた味なのだろう。マーリンが作っていた食事は全部、どこか味気なかった。マニュアル通りである、と言えばいいのだろうか。お手本のような味。人間味の感じない味。
なのに、お菓子は、まあ、及第点をやれるだろうか。そんな風に考えてしまう程度には、自分はあの夢魔に毒されている。
これを恋と呼ばずに、なんと名前をつければいいのか。
ああ。そうか。ボクはいつの間にか、あのろくでなしに恋をしていたらしい。
「……ロマニ」
控えめなテノールが部屋の空気を震わせる。ふ、と部屋にあかりが灯り、そこにいたのは白い夢魔。今、ロマニが好きな相手だと、自覚したそのひとだった。
「……マーリン、この前は、その」
「あぁ、構わないよ。まあ、私も君の夢の中で好き勝手したからね。追い出されても仕方ない」
「お前、実はちょっと根に持ってるだろ」
そう言えば、マーリンは黙り込んで目線をうろつかせる。珍しいこともあるものだ。
「……言っただろう、君にお菓子を振る舞うのは初めてだと。君はお菓子に対してこだわりがあるみたいだから、私の作ったものを気に入るかどうか疑問だったんだ」
口を尖らせて言う姿がいじらしい。まさかマーリンの挙動ひとつをこんな風に思うようになるなんて。
「……ちゃんと美味しかったよ。ごめんな、言えなくて」
ロマニの謝罪を聞いて、マーリンは目を見開いて固まる。表情筋が運動を完全に停止していて、少し心配になるほどに。
「……マーリン?」
「……あっ、いや、うん!それならいいんだよ!まあ当たり前だよねこの僕が作ったのだから!」
胸を張って言う様子が常にないもので、今度はロマニが目を見開いて惚けてしまう。
マーリンって、こんなに可愛かったっけ。そこまで考えて、夢魔である彼に、夢の中での自分の思考が読まれてしまう可能性があったことを思い出して、慌てて考えるのをやめようとした。しかし、一歩遅かったらしい。
「え、ええ、なんだいそれ……。そ、そんなに今の僕、変な顔をしているのかい?困ったな……。君にそんな反応されると思わなくて、どんな表情を使えばいいのかわからない……」
両手を頬に当てて、マーリンは俯いている。少しだけ、頬が、髪から覗く尖った耳が、赤く染まっているように見えた。
「もしかしてお前、照れてる……のか?」
「えっ、えぇ?」
ロマニがマーリンに声をかければ、マーリンは情けなく眉を下げてこちらを見上げている。その様子がどこか幼く見えて、可愛らしくて、ロマニはたまらずに笑ってしまう。
「笑うことないだろう!さっきまであんなに鬱々とした空気を張り付けてた癖にっ……、あれ、おいしいからお気に入りなのに」
「お前、感情の味とかわかるのか?」
「わかるとも!機嫌の良いとされる分類の感情はちょっと喉にこびりつくようであまり好きではないんだけど。摂取しやすくて栄養価も高いマイナスの感情が好ましいかな」
それなら、あの味気ない食事をする時の自分の感情は、マーリンの食事にうってつけだったに違いない。鬱々とした気持ちまではいかないが、それでも良い感情ではあるとは言えなかったからだ。
「……このタルト、そっちで食べていいか?紅茶も用意してくれると嬉しいんだけど」
そう言えば、マーリンはまたにこりと笑う。借り物の表情。それでも彼が綻ぶように笑うのなら、たとえ借り物でも構わない気がしてきた。
「ロマニくんはわがままだなあ。マーリンお兄さんの特別サービスだぞう」
こつこつと靴の音を立てながら、マーリンはキッチンに立つ。マーリンと一緒にキッチンに並んでいる。それもまたおかしくて、なんだか自然と口元が綻んだ。
「……全く何がそんなに面白いんだい。君の感情は本当に不可解だなあ」
「それを美味しそうに食べてるのはお前だろ」
「そうかなあ?」
ロマニは先ほどからマーリンに対して好意と言えるものを向けているのに、マーリンは気付かない。もしかしたら気付かないふりをしているだけなのかもしれないが、自分に対して彼がそんなに余裕のあることができるとは思えなかった。
きっと、自分に向けられる恋心を理解できないのだろう。共感できないのだろう。
それでいい。この気持ちは、彼が飲み込む感情に乗せて、間接的に伝えられるだけでいい。
それだけで、自分は満足なのだ。

フォークをタルトに入れて、口の中に放り込む。おいしい。
「……うん、おいしいけど、今度はもうちょっと甘い方がいいな。次は砂糖多めでよろしく」
「はいはい、覚えていたらそのように作ってあげよう」
こんなことを言いながらも、きっと彼は次も味付けを変えないのだ。彼が変わることがないように。自分が、変われないように。
けれど、このささやかな食事の場でマーリンが自分の感情を食べるのならば、喜んで彼の作った料理を完食してやろうとロマニは人知れず心の内に想いを秘めるのだった。

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