気づいたら、またあのテーブルを前にして座っていた。今も自分は夢を見ているのだろう。ロマニはどこか現実味のない感覚を前に目を瞬かせる。
今日の夢にはマーリンがいない。その事実に、ロマニは首をかしげる。自分ではない他人の夢の中にいるのか、それともあの理想郷で世界を視ているのか。彼がいない夢の中は、違和感に満ちたものだった。
彼がいる時は賑やかな夢の中に今はロマニ一人しかいない。調理の音が響くキッチンはしんと静まりかえり、カーテンも閉めきったまま沈黙を保っている。
自分の鼓動まで聞こえてきそうな程に、静かな空間だった。
ここが夢だとわかってしまったので、手持ち無沙汰になってしまった。自発的に目覚めることは困難だろう。起きればやらなければいけない事は両手で足りないくらいあるのだが、いざ自由な時間ができてしまうと何をすればいいかわからなくなってしまった。
自分の夢の中。夢を見るとすれば、人理が焼却される最悪の未来をただ眺めなければいけないものか、内容も覚えていない朦朧としたものか、もしくはマーリンとこの部屋で食事をする夢だった。おそらくこの夢は明晰夢に当たるから、ロマニの考えた通りのことが起こるのだろう。
なぜマーリンが見せる夢はいつも食事をする夢なのだろう。食事は手っ取り早く摂取できる人の三大欲求の一つだから、なんて彼なら白々しく語りそうだとも思った。
マーリンがここで作ってくれる食事を食べるのもいいけれど、やはり自分は甘味が好きだった。最近食べたものはなんだっただろうか。モニターに向かう日々が続いているから作業に支障が出ず、手が塞がらない飴玉か、時折ダヴィンチに強制的に出される半日程度の休暇の時に、赤い弓兵が作った洋菓子だったか。そういえば、以前マシュが用意したお菓子だと気づかずに食べてしまった、あのお菓子はなんだったろう。
そこまで考えて、机の上にちょこんと皿に乗った豆大福が三個ほど並んでいる事に気がついた。どうして、とロマニは戸惑ったが、よくよく考え直してみればここは夢なのだ。自分が無意識に考えたことがそのまま反映されてもおかしくはない。
きょろきょろと無意味に辺りを見回してしまう。自分以外ここにはいないのだから気にすることは何もないけれど、以前マシュとマスターがレイシフトしている時にお菓子を食べたら怒られたことを思い出して、なんとなく、豆大福に手を伸ばすのを躊躇してしまう。けれど餡子の甘さ、大福の皮の塩味を想起するが、一つだけ、と欲に耐えられずに手を伸ばした。
ひとくち、頬張る。大福の皮の塩味と、餡子のじんわりとした甘さが口いっぱいに広がった。美味しい。和菓子を食べるのは何日ぶりだろう。思わず頬を緩めて味わってしまう。もう一つ食べようか。ああでも、こんなに美味しいのにもったいないな。味わって食べるべきだろう。そんなことを考えながら、一つめの豆大福を食べ終える。こくんと喉を動かして飲み込んだ。
甘いものを食べて気分は上がったはずなのに、ふと目の前の空間に自分しかいない事に違和感を感じる。
いつもの机。いつもの部屋の床と壁。燦々と部屋を照らす日光のよく当たる窓。靡かないカーテン。静まり返ったキッチン。本来、これが当たり前であったはずなのに。あの白い夢魔がいる方が、賑やかだった事の方が、間違っていたはずなのに。
「おや?美味しそうなものを食べているね!」
静まりかえった部屋に朗らかなテノールが響く。背後から、この夢を見るようになってから随分見慣れてしまった色の白い手が伸びてきて、その手は目の前にあった豆大福を一つ、つまみ上げた。
あ、それ、一番大きいやつ。ボクが一番最後に食べようとちょっと思っちゃったやつ。
「相変わらずワガシって言うものは独特の食感がするね。しっとりしているのにどこか水分が足りなくて、飲み物が欲しくなる。日本では緑茶と共にいただくのだったかな?あれ、どうしたんだいロマニ。さっきから黙り込んで。お茶を用意してなかったから怒ったのかい?」
「お前!その大福、一番大きいやつだったんだぞ!?なんでよりによってそれを、お前が、食べるんだよぉ!」
「おやおや、ごめんよロマニ。ってうわっなんだこれ君の感情今すごい味になってるぞう!?」
突然現れたマーリンに驚愕したのと、彼が来たタイミングが絶妙で、ロマニは一言で言い表せられない程の感情に襲われた。十年程度生きたぐらいではまだ言葉にできない感情もあるのかと、どこか他人事のように考えてしまった。
マーリンが、自分以外の存在が、夢の中にいる。その事実が、くすぐったさと安堵を感じさせた。
「うん?そうかと思えば穏やかな味になるし……何なんだい君の感情は、面白いなぁ」
くすくすとマーリンは笑う。彼が来た事によって、どこか安心している自分がいる事に、ロマニは驚愕していた。
さっき自分は、この空間にひとりきりだと感じた時、おそらく寂しさと呼ばれるものを覚えたのだ。この、目の前にいる夢魔がいない事実に。
「今日も何か作ってあげようかと思っていたけど、この大福があるなら大丈夫かな?それともマーリンお兄さんが腕をふるってあげようか」
突然噴き出す間欠泉のように溢れ出る感情に戸惑うロマニを尻目に、マーリンはとても楽しそうに笑う。その笑顔だって誰かの借り物のはずなのに、何故そんなにも楽しそうな笑顔をこちらに向けるのだろう。ずるい、と場違いにも彼を責め立てたくなってしまう。
「……今日は何を作ってくれるんだ?」
けれど、そっぽを向いてぶっきらぼうな返事しかできない自分もずるいと思う。料理を断れば、マーリンがこの夢から出て行ってしまいそうな気がしたからだ。
にんまりと音がしそうなくらい綻ばせた表情が、いつもなら腹立たしく感じさせるそれが、今は何故か無性に愛おしかった。
△
砂糖が焦げたような、甘く香ばしい匂いがキッチンに広がる。オーブンがジジ、と鈍い音を立てながら、何かを焼いていた。
何を作っているのか聞いたら、マーリンはできてからのお楽しみだよ、と笑って答える。とても楽しそうなその笑顔に、ロマニは視線を逸らす事ができなくなってしまった。作業があるのだろう、ロマニの方に笑みを浮かべていたマーリンは視線を手元に移る。うっすらと笑みを浮かべた横顔に、ロマニは見惚れてしまっていた。
いつも普通の食事ばかり作っているのに、今日は何やら手順が違うし、材料もとても食事向きのものとは思えなかったから、おそらくマーリンはお菓子を作っているのだろう。ロマニはテーブルに頬杖をつきながら、ぼんやりと考えはじめた。
今まで食事しか作っていなかった彼が、突然お菓子を作るなんてどうしたのだろうか。気の迷いだろうか。
疑問は尽きないが、あの夢魔が何を考えているのかなど自分には理解ができないからと考えるのをやめた。どうせ自分の考えは全部、マーリンの頭に流れている。
「いやまあ、そりゃあ筒抜けだけどね?それにしたってその言い草はないんじゃないかなロマニ君。……い、痛い痛い!腕を抓るのはやめてくれないか!」
考えを読まれてるのだろうとは思っていたが、本人の口から言われると腹が立つので、マーリンの横まで行って腕を少しつねってやった。痛そうに顔を歪めている。そんな表情も、今日は何やら珍しく思えた。
チン、と高い音を鳴らしてオーブンが止まった。どうやらお菓子が出来たらしい。オーブンの扉を開けると、甘い匂いがキッチンだけでなくロマニのいる部屋の中ほどまで届いた。
「さあ、焼き立てだよ。……このお菓子がロマン君の口に合うといいのだけれど」
普段、料理を振る舞う時は得意げにしているマーリンが珍しく殊勝な物言いをしている。ロマニはその事実がおかしくて、露骨に眉を顰めてしまった。
「なんだい、そんなに珍しいかい?……お菓子はまだ君に振る舞ったことがなかったからね。私は君の好みなんて知らないのだし」
ブツブツと言い訳を呟きながらも、マーリンはてきぱきと手を動かす。オーブンから出てきたのは、丸くて赤いケーキだった。
「ロマン君は知っているかな。これはタルトタタンと言ってね。まあ、簡潔に言ってしまえばリンゴのタルトだよ。粗熱が取れるまで少し待ってくれたまえ」
ふんわりと香っていた甘い匂いは、どうやらリンゴの焼ける匂いだったらしい。少し焦げ付いた匂いがするのは、リンゴを砂糖で甘く味をつけていたためであるようだった。
表面のリンゴが、赤く艶めいて光る。太陽の光に照らされているのだろうか。ふと視線をそらせば、日光の入る窓のカーテンが風に吹かれてさらさらと流れている。窓なんて開けたかなあ、とロマニは考えたが、マーリンの声が聞こえてきて意識を戻した。
「そろそろ切り分けられるかな。本当はもう少し置いておいたほうが味も落ち着くんだろうけど、何故か君たちって焼きたてのお菓子が大好きだろう?」
不思議だよねえ、アルトリアも焼きたてのスコーンの方が好きだったし、とマーリンは何気なく呟くのが聞こえた。マーリンから、夢の中で他人の名前を聞いたのは初めてかもしれない。何故か、心が少しだけざわついた。
「うん、美味しそうに焼けてる。ささ、せっかくだし出来立てを食べたまえ。君のお口に合うかは別としてね」
控えめに花の装飾の入った食器に乗せられたタルトタタン。いつの間にか用意されていた、匂いの良い紅茶。コトリと音を立てて、机の上に並ぶ。
机の上に置かれたフォークを手に取り、一口で食べ切れるぐらいの大きさに切る。ざくり、ざくり。耳障りな音がする。指先を通じてタルトが割れるのを感じた。
フォークを刺して、口の中に放り込んだ。甘い。ざりざりとした食感が口の中に広がる。砂糖の染みたタルトを噛み砕く。甘い。
味の感想は、伝えられそうになかった。
「出て行け」
ロマニが呟けば、目の前にあったタルトタタンが消える。部屋に差し込んでいた温かな日差しも、ロマニの目の前で驚愕の表情を浮かべる白い夢魔も、机も、椅子も。最後に、カップが音を立てて割れた。
しばらく、この夢は見たくなかった。感情がぐるぐると渦巻く。目頭が熱くなる。初めての激情だった。
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