※死ネタです
灯り一つ見えない真夜中。連理の木の下、地面に座り込む俺にざあざあと雨が降り注ぐ。
頭を、肩を、背中を叩くように降る雨にだんだんと体温を奪われていくのに、体はてんで震えたりしないのが不思議だった。
耳に響くのは雨の音が世界に叩きつけられる音だけ。腕の中で抱きしめた、胸元から血を流す善逸は少しずつ温もりを失っていく。
このまま善逸の匂いも雨に流されていきそうで怖くなって、動かなくなった善逸をがむしゃらに抱きしめて呻き声を上げた。すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅げば、まだ善逸の匂いが残っている。けれど彼からは生きた人間の匂いはしなかった。少しずつ薄れていく匂いに恐怖を感じているのに、どこか安堵を覚える自分がいる。
こんな気持ちは初めてだった。自分の腕の中で、失われていく命の灯火にたまらない愛おしさを覚える。俺の手が、彼の命を終わらせたのだ。その事に、どれだけ心が震えただろうか。
きっと俺は狂ってしまったのだろう。そう思わなければ、愛しい人を殺したと言うのにこんなに心が凪いでいるわけがなかった。
いつから俺はこんな風に考えるようになったのか、はっきりとは覚えていない。少なくとも、善逸や伊之助を誘って生まれ故郷へと帰った時には考えていなかったと思う。
鬼殺隊に居た頃から募らせ続け、ずっとひた隠しにしてきた善逸への恋心は、一つ屋根の下で共に住むようになってから抑えが効かなくなった。
何事もなく平和に明けた朝に善逸を起こすだけで満ち足りていた気持ちが日を追うごとに欲を増していき、今までは何気なく出来ていた触れ合いや会話すらままならず、善逸を眺めながら惚けることも増えた。
俺と一緒に居る時の善逸から嫌がる素振りはなく、むしろ嬉しそうな匂いをさせながら俺の近くにいるものだから、気が気じゃなかった。
禰豆子や伊之助が一緒にいる時は自制が効くのに、二人きりになるとてんで駄目になってしまうそれを善逸から指摘されたのは、共に暮らすようになってから半年が経った頃だった。
「炭治郎、俺さ、出て行った方がいい?」
「な、なんで急にそんな事を言うんだ!?」
禰豆子が行く買い物に伊之助が付いて行き、俺と善逸が二人で洗濯物を干している、そんな何気ない日常の中に大きな爆弾を落とされた。善逸は、何を思ってそんな事を言い出したのか。
二人で一緒に洗濯物を干すなんて、なんだか新婚のようで浮かれてしまうなぁなどとうつつを抜かしながら善逸への恋慕に心がいっぱいだった俺には、それを察する事が出来なかった。
「だって、お前の音すっごいんだよ。一緒に居られて嬉しいけどさぁ……、俺と二人きりになると、炭治郎の音が変になるんだ。俺、嫌だよ。炭治郎が俺のことどう思ってるのかとか、分からんけどさぁ。少し、距離を置いた方がいいんじゃないの」
そこまで言われて、俺ははたりと気がつく。
まだ善逸に想いを伝えていなかった。きっと善逸と一緒に居る時の俺からは、恋をする人間の音がするのだろう。
善逸からは常にない俺の調子を音で見抜いて、原因が自分であることを突き止めたのだ。
「嫌だ。俺はお前が好きだ」
「へ?」
「善逸の事が好きだから、そばにいて欲しい。共に暮らして欲しい。もしも俺からの恋慕が迷惑でないのなら、俺と共にこの家で変わらず暮らしてくれないか」
生活が安定したら、善逸に想いを伝えようと思っていたはずなのに。善逸に指摘されるまで俺は善逸に想いを伝えることもしないまま、ただ恋慕を募らせていたのだ。
「お、前、え?炭治郎って俺のこと、好きなの……?」
「ああ。鬼殺隊に居た時からずっと。……てっきり、音で気付かれているものかと思っていたが、気付いてなかったのか」
「し、知らんよそんなの……!いや、俺もお前のことは好きだけど、そういうんじゃなくてさぁ……」
顔を真っ赤にして言い募る善逸から、ふわりと匂いが香る。動揺、戸惑い。そして、嘘。
「……善逸、誤魔化さないでくれ。お前の気持ちを、俺はお前の言葉で聞きたい」
「そういうのは、ずるいじゃんか……」
善逸の手首を掴み、じっと目を見つめる。俺の右目はもう何も映さなくなって以前に比べれば見える範囲は減ったけれど、それでも善逸の事を見つめることはやめたくなかった。
「……俺も、お前のことが好きだよ。そういう意味で。それこそ俺だって、お前に会ってすぐ惚れてたよ。炭治郎からは、聞いたことがないくらい優しい音がするんだ」
「……そうなのか」
「くそっ、伝えるつもりなんか、無かったのに!お前が、お前が変な音させるからっ……!」
涙を流しながら言い募る善逸に堪らず抱き寄せる。右手で引き寄せるように、左手は添えるくらいしか出来ないけれど。
「善逸、好きだ、どうか俺の最愛の人になってくれ……!」
「……うん、なる、炭治郎ぉ、俺もお前を好い人だって、爺ちゃんに紹介していい……?」
「っ……ああ!俺からも挨拶をさせてくれ!そして禰豆子や家族のみんなに、俺にはお前がいるんだと言わせてくれ……!」
きっとこれが最後の恋だ。痣を出した俺のこれからは長くはない。きっと、俺は善逸を置いて逝ってしまう。それが寂しくて、悲しくて、ほろほろと涙が溢れてくる。
愛しいこの存在を、腕に抱いて連れ去れるならどんなに良いか。茹だった頭では、正気の沙汰では考えないことばかり考えてしまって良くない。
「……なぁ炭治郎。痣を出した人って、本当に二十五で逝っちまうのか」
「知っていたのか」
「うん。隠の人だったか、水柱だったか忘れたけど、聞いたよ。それが本当だったらさ、俺も連れて行ってよ」
「……善逸?」
俯きながら、俺の羽織を皮膚の色が白くなるくらい強く握る善逸の姿がとても小さく見えて、痛々しかった。
「もう俺にはさ、俺しか残ってないの。そりゃ、鬼殺隊の給金くらいはありますけどね?俺に残ってるのはこの身ひとつと、爺ちゃんの骨と、日輪刀と、最低限の衣服ぐらいなもんよ。孤児だったから家族もいないし、家族がわりだった爺ちゃんも兄貴もいなくなっちまった。……だからさ、炭治郎が逝く時に俺も連れて行って」
「……善逸、それは」
いいのか。俺は、お前を連れて行ってもいいのか。甘美な誘いに喉から手が出るほど惹かれるけれど、理性がそれを押し留めようとする。善逸がそれを望んでいたとしても、そんなこと、決して許されるものじゃない。
なのに、こんな、こんなに物欲しげに請われてしまったら。
「いいんだよ、遠慮とかいらんよ。……恋しい人と共に死ぬことを心中とか、情死って言ってな。俺の生まれ故郷の花街とか、遊郭での任務の時なんかで耳にしたことがあるのよ。爪を抜いたり、切指したりするのもあるらしいんだけどさ。俺はそんなのものでの誓いより、お前と一緒に逝きたいんだ」
「ッ……!」
苛烈な愛情に、言葉が出なかった。力のない左腕を無理に動かして、善逸のことを力の限り抱きしめる。善逸の腕が背中へと回り抱きしめ返されたのに、涙が溢れた。
俺と善逸が想いを交わしてから、一年が経った。禰豆子は麓の町に住む好い人の元へ嫁いでいった。伊之助もまた、いつの頃からか蝶屋敷へと通うようになり、程なくしてアオイさんと祝言を挙げた。
大事な家族の晴れ姿を見送り、数年が経った頃。俺の体に異変が現れ始めた。二十三になる年に前触れなく喀血し、それから転がり落ちるように体調が悪くなっていった。
二十五まで、あと二年。痣の代償は確実に俺の体を蝕んでいたのだと、善逸と顔を見合わせて思った。
それからは、俺たちは驚くほどに穏やかに生きた。元より裕福な暮らしを求めていたわけではない。慎ましく幸福な日々が続けば良いと思っていたから。善逸は時折少々値の張る物を買っていたりしたけれど、男二人、特別贅沢をしなければ生きていけるほどには、鬼殺隊から給金が支払われていた。
善逸は俺のそばで、共にいてくれた。俺の体調が悪くなければ共に朝餉を作り食べ、昼間は散歩に出たり、ゆっくりと茶を飲みながら思い出話に花を咲かせた。……そして夜は、無理のない範囲で情を交わすこともあった。
幸せだった。愛した人と共に居られるだけで、こんなにも幸せで。
数えで二十四になる年の、春の事。俺はまた喀血して、それからは床から離れる事が難しくなっていた。まるで晩年の父のようで、少しだけ苦い気持ちにもなった。病床の父はいつも植物のようで、時折、少しだけ怖かった。俺は、善逸に怖い思いをさせていないだろうか。そんな事を、つらつらと考えていた。身の回りの整理は、一度目に喀血した頃から行っていたから驚くほど順調だ。もし明日俺と善逸がいなくなったとしても、それほど問題がないくらいには。
俺の体は、無理をしなければもう満足に動かせなくなってきていた。きっと二十五を迎える少し前ぐらいに、俺の命は断たれるのだと悟る。
月の綺麗な夜だった。今日は体調が良くて、よく晴れていた昼間に善逸と散歩に出かけた。夕餉を共に食べ、膳を下げている中、腰を引き寄せて久方ぶりに情を交わしたいと請えば、善逸は体を固くした。俺の声色がらしくもなく緊張していたのか。それとも、音を聞いて理解されていたのか、それは分からなかった。
善逸と体を重ねるのは、これが最後になるだろう。
最後の情欲はお互いに初体験かと言うほど緊張した。けれどそんなものは熱を分け合い始めればすぐに綻び、ただひたすらに互いの熱を貪った。決して激しく体を重ねることは出来ないが、指や足を絡め、口を吸い、互いの音と匂いに、熱に溺れた。互いに果てた後、善逸が零した涙が愛おしくて、ちゅうと吸い付いた。
身を清めた後、小さな懐刀を胸にして手を繋ぎゆっくりと山を登る。共に死ぬならここにしよう、と以前から見当を付けていた、連理の松の木まで歩いた。
かつて流行していたらしい心中物の作中で情死を果たした男女も連理の木の側で逝ったらしいというのを、善逸が教えてくれたのだ。
昔ならばこんな夜更けに山道を歩くだなんて、と姦しく騒ぎ立てていたことだろうに、善逸は静かに微笑みながら俺の手を握っていた。それが可愛らしくて、いじらしくて。
誰だって死ぬのは怖い。善逸からは幸せそうな匂いの裏に怯えの匂いが混じっている。きっと俺から聞こえるらしい音も、似たようなものだろう。
俺はこれから、愛する人を手にかけるのだ。
日が落ちる前から降り始めた雨は止まずに一本の傘を叩く。地面がぬかるんで、少しだけ歩きづらかった。何も、こんなに雨が降り頻る中で無くてもよかろうに。けれど俺にはもう、明日の保証などどこにもない。あるのは善逸への恋慕と、遺してしまう家族への詫びと、善逸を共に連れて逝く罪悪感だ。
俺が痣者でなければ、善逸はこんなに早く逝くことは無かったのではないか。家を出る前に覚悟を決めたはずなのに、そんなことばかりが頭から離れない。
もしも来世があるのなら。平和な世でまた善逸と出会い、恋に落ちたい。想いを交わし合いたい。
「善逸」
「なぁに、炭治郎」
「お前を愛している。来世でも、共に在りたい」
「……俺も。俺もお前を愛してる。来世でも、お前の音を聞きたい。お前に会いたい。来世でも俺のこと探してくれる?」
「ああ。必ず、必ず見つける」
俺もすぐに後を追うから。善逸の瞳を見つめながら伝える。善逸はゆっくりと目を閉じて、目蓋を開いて俺の目を見つめた。
善逸の胸元に刃を突き立てる。生身の人間の肉を抉る感触は、鬼の頸を断ち切っていた時のそれに似ていて少しだけ怖くなった。
せめて、苦しまずに死なせてやりたい。頸を落とすのが一番良いのかもしれないが、日輪刀は使いたくなかった。だからといって力任せに頸を落として、善逸の死体が損なわれるのは耐えられなかった。急所を刺し、そのまま喉を切る。善逸は耐えきれないのか、呻き声を上げて胸元を押さえた。
嗚呼、ごめんな。共に生きてやれなくてごめんな。苦しませてごめんな。俺もすぐに逝くから。血塗れの彼を木に押さえつけて口付けをする。口の中にも血が広がっているのか、舌を入れて舐めれば血の味がした。
「ん、んぶ、ぅ、ぐっ……、たん、じろ、すき……」
「俺も好きだ、善逸、善逸……!」
絡めていた舌が脱力して、しがみついていた腕がぶらりと垂れ下がる。死んでしまう。命の灯火が消えてしまう。木の下で、葉っぱの隙間を縫うようにぽつぽつと落ちてくる雨粒が体を叩く。
一人で立っていた善逸から力が抜けて、俺の体は善逸を十分に支えてやれないまま尻餅をついた。もう、善逸一人を支えることもできやしないのか。無性に情けなくて、知らず涙が溢れる。風が出てきたのか、横殴りの雨が頬を濡らす。
物言わぬ死体になった善逸を眺め始めて、いくらの時間が経ったのだろう。半刻もしないくらいかもしれないし、もしかしたらもう少しで夜明けになるかもしれない。
雨は止まない。いつの間にか傷口からの出血は止まり、刀についた血もまだらに流れ落ちていた。
顔に一際大きな雨粒が落ちてきて、俺ははっと気がつく。
俺がなかなかいっていないから、善逸が寂しがっているかもしれない。早くいってやらないと。俺はいつも何かを決めるのが遅くていけない。
「今から、いくからな」
そういえば、無限列車に乗った時に何度も自害をしたんだったか。あの時は必死だったけど、今はこんなにも心が穏やかだ。心臓に届くように、胸元に強く一突き。臓器が抉れる痛みに、口から呻き声が上がる。震える腕を叱咤して、首元にも刀を当てた。とても痛いけれど、苦しいけれど、これで良い。これで良いんだ。
傷口の痛みから逃げるように善逸の唇に口付けを噛みつけば、驚くほどに冷たかった。
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