焦れったい、君との距離/リドフロ

とく、とくと響く鼓動の音が鮮明に聞こえる。目を開けると、形を歪に歪めたリボンタイが見える。
そういえば、寝ていたのだった。フロイドは大きく口を開けながらあくびをして、寝起きで回らない頭のまま顔をあげれば、すうすうと寝息を立てるリドルの姿があった。
「金魚ちゃん寝てる……」
そういえば、寝る前にリドルのことを抱き枕にしようと思ったのだった。リドルの顔を見ていたら、なんだか眠くなってきたのだ。そうしてそのまま気分のままに、リドルの腕を掴んで芝生に寝転んだ。
無防備に眠るリドルは、いつもならぱちりと開かれた灰色の瞳を目蓋の向こうに隠してあどけなく眠っている。
それをじっと見つめていると、フロイドはなんだかむず痒いような衝動に襲われる。
それが何なのか分からないまま、リドルの鼻をつまんだ。
「……ふぎゅ、ん゛」
奇妙な声を上げて、リドルがぼんやりと目蓋を上げる。息が詰まって目が覚めたのだろう。何度か瞬きをした後、大きな瞳の焦点がフロイドへと向けられる。
「おはよー金魚ちゃん。よく寝られた?」
「え……?フロイド?」
「オレはねえ、金魚ちゃんのおかげでぐっすり寝られた!でも別に金魚ちゃん体温高くないね」
「あぁ、そう…?」
滑るように止まらないフロイドの話に胡乱な声で相槌を打ちながら、リドルは少し薄墨がかった空を見上げた。
確か、本を読み始めた時間は四時前だった。その時間に太陽が沈もうとしていて、今はもうほとんどその姿を水平線の向こうへ隠れようとしているようで。今は一体何時だろうか?
「……フロイド、今、何時なんだい」
「今ぁ?六時ぐらいじゃね?」
「六時!?」
「うわっ」
腹に緩く巻きついていたフロイドを振り払うように、リドルは体を起こす。
「今日は夕食の後にトレイと打ち合わせがあるのに……!」
「あは、金魚ちゃん帰るの?ばいば〜い」
そのまま立ち上がったリドルはブレザーを脱いで、スラックスにもついた芝生を手でざっと払う。そして鞄と本が置いてあるガゼボへと小走りで向かった。
「フロイド、キミも早く寮に帰りたまえ!」
「はいはい、じゃあね〜」
鞄を掴んでハーツラビュル寮へと走り出したリドルを、フロイドは芝生の上で未だ座り込んだまま眺める。夕食は逃げないのだから、そんなに急いで帰る事もないのに。
人通りもなく、リドルもいなくなった中庭にはもう用はない。
フロイドも立ち上がり、適当に肩や背中についた芝生を適当に払い落としてオクタヴィネル寮へ向かおうとしたが、何かを見つけたのか、立ち止まる。
ガゼボの中、リドルが座っていた少し向こう。ベンチの上に本が落ちていた。
どうやらそれはフロイドに絡まれるまでリドルが読んでいた本のようだった。
リドルは慌てて寮へ向かっていたので、本を落としたことに気付かなかったのか、持って帰るのを忘れていってしまったのだろう。
「金魚ちゃんってばしょうがないな……オレってば優しい〜」
本を拾って、表紙についていた砂埃を軽く払い落とし、フロイドは今度こそオクタヴィネル寮への帰路をゆっくりとした足取りで歩いた。
ハーツラビュル寮の談話室にある時計が、二十時の鐘を鳴らす。その音と同時にリドルは談話室へと足を踏み入れた。
すでにトレイはソファーに座っており、資料を広げていた。どうやら、内容の確認を行なっていたらしい。
「すまないトレイ、待たせたかい」
「いいや?約束の時間ピッタリじゃないか。俺は少し時間があったから、ついでに資料の整理をしてただけだよ」
時間通りに来たのだからトレイからは文句などないが、リドルは基本的に待ち合わせの時間より少し早く集合場所は向かう方だった。トレイもそれに合わせてくれていたようで、先に着いていたトレイに遅れた詫びを伝えた後リドルもソファーへと腰を下ろした。
「実は放課後、フロイドに捕まってしまってね。夕食を食べるのが遅くなってしまった」
「それは災難だったな……」
中庭から鏡舎へと向かい、そこからハーツラビュル寮までは歩いておよそ二十分程度かかる。
ナイトレイブンカレッジは寮生活を基本としているため、寮内での食事は自身で用意しなければならない。簡単なものを魔法を用いて作ったと言っても、それでも調理というものは時間はかかる。
結局リドルはいつもより少しだけ遅い時間に夕食を食べ、一度部屋に戻ってから談話室へと向かったのだった。
「ところで、相談したい事というのは何なんだい?」
「ああ、来月の頭に他寮と実践魔法の模擬戦があるだろう?選抜メンバーの事なんだが……」

「……うん、相談したかった事はこれくらいかな。また何かあったら連絡するよ」
「ああ、わかった。またメッセージを入れておいてくれ」
「了解。……ところでリドル。隈、少し薄くなってるな」
「え?」
「目の下の隈だよ。最近忙しくて寝れてないのかと思ってたんだ」
「ああ、もしかしたら今日、昼寝をしたからかもしれないね」
「昼寝……!?」
常に模範的な生活を行なっているリドルが昼寝をしたというのを聞いて、トレイは大層驚いたようだった。
トレイの表情を見て、リドルは慌てて理由を補足する。
「ち、違う!放課後、フロイドに絡まれたと言っただろう?その時に抱き枕にされてしまって。力が強くて抜け出せなかったから、やる事も無くて気付いたら僕も寝てしまったんだ」
「ああ、それで……。まあ忙しい事は分かるが、無理はするなよ」
「うん、トレイも。それじゃあお休み」
「ああ、お休み」
談話室の前で別れて、自分の部屋へと向かう。階段の踊り場にある鏡で自分の顔を見つめる。
「……隈、出来ていたのか。気をつけないといけないな」
不健康は、様々なことに支障を来す。常に栄養のある食事と十分な休息を取る事。それは、リドルが母親から寮生活に入るに当たって言い聞かされた事柄のうちのひとつだった。

三年E組の次の授業は、魔法薬学の実験だった。トレイは白衣へと着替えて、実験室へ向かうために廊下を歩いていた。
魔法薬学の実験室は二年生の教室と同じ階にある。休憩時間、校内のどこも騒がしいものだが、二年E組の前で見知った顔が言い争いをしているのが見えた。
「だからぁ、オレはこの本渡しに来ただけだって。あとジェイドと話がしたいんだってば〜」
「ならなんでボクの頭をキミの肘置きにされなければいけないのかな……?早くジェイドの元へお行きよ、ほら、座って良い子にして待っているじゃないか」
「いやまだ休み時間あるし?金魚ちゃんともうちょっとお喋りしよっかなって思って〜」
「キミと話すことなんて何も無い!いいから早く腕をどけないか!」
だんだんリドルの機嫌が悪くなっていって、廊下の真ん中で言い争いをしている。このままだと、リドルが更に怒ってユニーク魔法を使いかねない。ちょうど通り掛かったのだし、とトレイは仲裁するためにリドルに声をかけた。
「リドル、廊下を塞いでるぞ。フロイドも、うちの寮長を肘置きにしないでくれよ」
「あっれ〜センパイ、この階に居んの珍しいね。移動教室?」
「そんなところだ」
「ハァ……!ボクはもう教室に戻るよ。フロイド、ジェイドには一声掛けておくからボクに構わないでくれ」
リドルは、トレイに興味が向いたフロイドの手を軽くはたき落とし、フロイドの興味が自分へと戻る前に教室の中へと入っていった。
「あは、金魚ちゃんてばおもしれえの」
心底楽しそうなフロイドをトレイは見つめる。トレイの視線に気づいたのか、フロイドは口角を上げたまま顔を向けた。
「なに?」
「こないだの昼寝、わざとか?」
「さーあ?金魚ちゃんの眠そうな顔見てたらオレも眠くなっちゃっただけだし」
「フロイドはどこまで本当か分からないからなぁ」
苦笑いを浮かべながらトレイはフロイドに話しかける。
フロイドは、トレイの事をあまりよく思っていないらしく、愉快そうに釣り上げていた目尻をすっと細めた。
目の前の男は腹の底が知れない。普通の男だと自称しておきながら、彼はどこまでも普通では無いのだから。
「え〜、めっちゃ突っかかってくるじゃん。別に金魚ちゃんに変なことしてないよぉ」
「はは。まぁ、からかうのも程々にしてくれると助かるんだがな」
「それは無理かなー、だって金魚ちゃん面白いんだもん。じゃ、オレジェイドのところいくから」
フロイドは薄っぺらい笑みを浮かべながらひらひらと手を振ってジェイドの元へ歩いていった。
警戒心の籠もった瞳に見つめられていたトレイはひとつため息を吐いて、実験室へと足を進める。
「リドル、厄介なのに目を付けられたな……」
教室の中でジェイドに話しかけるフロイドは、無意識にリドルの方へ目線を移していた。

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